歴史
中世から江戸期にかけて
大町の町名は、中世から既に存在しており、蘆名氏の治める黒川城の城下に存在しており、あとの米代一之丁付近にあったとされる。同時期から同様に存在していた町として馬場町などを示すこともできる。その後、文禄元年に蒲生氏郷が城下町の町割りを改めて行った。この際に、蒲生氏郷は武家が主に住む外堀の内側、郭内の地域と町人などが主に住む外堀の外側、郭外の地域に城下を再編した。このような蒲生氏郷による城下町の整備に伴い、大町は現在地に移ったとされている。
この現在地に移った大町は、当時の上町の一部であったが、この上町とは、大町から東の町々のことを指していた。また、この大町は郭門、大町口から北方向に向かう通りであり、城下町における中心的な商業地であったとされている。具体的には、刀鍛冶などから豆腐屋、茶屋などに至るまで数多くの種類の店が存在していた。蒲生氏郷は前述の城下再編のほか、六斎市の導入も行なっている。大町は、この蒲生氏郷によって導入された六斎市が開かれる町のひとつとなり、五、十の日に市が開かれていた。
江戸期において、大町と七日町、一之町が交差する地点は「札辻」と呼ばれていた。これは、会津藩内の街道などの起点、基準点となる地点であり、広報を行う高札場が設けられていた。この地点には、その後大正期に若松市道路元標が設けられている。
江戸期における大町について以上のように述べることができるが、江戸期の大町は長さ6町54間、幅4間で、一之町、二之町、三之町、四之町、道場小路町の傍出町が存在し、五之町から先は大町名子屋町と呼ばれていた。この大町名子屋町をさらに先に向かうと糠塚町に至っていた。加えて、寛文6年には人口2,349人が数えられ、化成期には353軒の家が存在していた。
明治期から住居表示前にかけて
明治になると、江戸期の大町から、大町竪町、大町二之竪、大町三四之竪、大町一之町、大町二之町、大町三之町、大町四之町、大町原之町、大町名子屋町が成立した。これらの町々は当初「若松」を冠称していたが、その後明治22年後以降は若松市の一部となり冠称なしの町名となっていた。これらの町々は、昭和の大合併を経てそのまま会津若松市の一部となる。
このうち、大町竪町は明治13年に戸数104、人口547、大町二之竪は明治8年に戸数22、人口111、大町三四之竪は明治13年に戸数30、人口220、大町一之町は明治13年に戸数65、人口297、大町二之町は明治13年に戸数63、人口254、大町三之町は明治13年に戸数51、人口202、大町四之町は明治8年に戸数37、人口204であった。
明治期、当時の福島県令、三島通庸は会津地方から新潟、日光、米沢方面にそれぞれ道路を建設し、これを会津三方道路とした。この会津三方道路の開通にあたり、先に述べた札辻に「会津新道開通碑」が設けられた。さらに、明治32年には郡山と若松を結ぶ岩越鉄道が開通し、大町名子屋町の北側に若松停車場が設けられた。この他、若松町役場、若松市役所が町内に置かれるなどしていたほか、大町通りは明治期、大正期も若松市街地の中心的な商店街として栄えていたとされている。
住居表示以降
昭和42年と昭和55年に大町周辺で住居表示が行われ、現在の大町一丁目と大町二丁目が誕生している。具体的には、昭和42年に大町通りの西側の住居表示が、昭和55年に大町通りの東側の住居表示が行われている。
昭和42年の住居表示では、大町原之町の全部と、大町竪町、大町二之竪、大町三四之竪、道場小路町、原之町、紺屋町、七日町、北小路町、桂林寺町のそれぞれ一部から南側の大町一丁目が、大町名子屋町、町北町大字石堂字糠塚裏の一部から北側の大町二丁目が誕生している。
昭和55年の住居表示は大町土地区画整理事業によるもので、前述の通り大町通りから東側の住居表示が実施されたが、区画整理事業によって新たに設けられた中央通りまでの区域が新たに大町一丁目、大町二丁目に再編された。具体的には、大町竪町、大町二之竪、大町三四之竪のそれぞれ全部と、大町一之町、大町二之町、大町三之町、大町四之町、馬場下五之町のそれぞれ一部から大町一丁目が、大町名古屋町、馬場下五之町、町北町大字石堂字上坂ノ下、町北町大字石堂字当麻東のそれぞれ一部から大町二丁目が誕生している。加えて、この住居表示によって新たに誕生した中央一丁目、中央二丁目にも旧来の大町の区域が含まれている。大町一之町、大町二之町、大町三之町、大町四之町の一部が中央一丁目に、大町名子屋町の一部が中央二丁目になっている。
このように大町周辺においては住居表示が実施されたが、1950年に神明通りが開通したのに続き、1978年には神明通りが開通している。一方で、1967年には大町通りが一方通行になっている。これら通りの開通を受けて、これらの通りの沿道は商業地などとして発展する。
現況
先に述べたように、現在は大町一丁目と大町二丁目が存在している。このうち、大町一丁目は旧来の北小路町付近から旧来の五之町付近まで、中央通りと旧来の後之分町の間を町域としている。また、大町二丁目は、旧来の五之町付近から、会津若松駅南の旧糠塚町付近までを町域としている。
大町一丁目は、町域の一部に神明通り、中央通り (国道118号) などを含んでおり、これらの通りの沿道は市の中心的な商業地の一部となり、店舗やビルなどが並ぶ。一方で、大町通り沿道などにおいては漆器店、呉服店など古くからの店舗などが見られるほか、町域の一部は住宅街などにもなっている。町域はこのように現在も商業地を含むが、中心市街地の空洞化が指摘される中で、一部ではその商業地としての役割が低下していることも指摘することができる。
大町二丁目も、町域の一部に中央通り (国道118号) を含んでいる。中央通り沿道は、大町一丁目と同じようにビルや店舗などが立ち並ぶ市の中心的な商業地域の一部となっている。加えて、大町通り沿道に古くからの店舗が見られ、住宅街となっている区域もあるが、町域には融通寺、実成寺、桂松院の寺院も存在している。
大町一丁目、大町二丁目双方の東部を経由し、江戸期の商業地「大町」であった大町通りは、現在観光向けのバス「ハイカラさん」が経由している。観光客向けの施設、会津町方伝承館も大町二丁目の大町通り沿いに存在している。加えて、江戸期には「七日町」であった国道252号、七日町通り沿道の一部も大町一丁目の町域となっており、この七日町通りも「ハイカラさん」が経由し、沿道には白木屋資料館などがある。さらに、旧来からの大町通りの一部などについては、平成4年、野口英世青春通りの愛称が付けられ、平成12年11月には道路をレンガ敷きで融雪設備を備えたものにするなど、整備が行われている。
ギャラリー
大町通り、大町二丁目 |
現在の大町札辻 |
神明通り |
中央通り |
参考文献
・『角川日本地名大辞典 7 福島県』 角川書店, 1983・『町名の由来』 会津若松市教育委員会, 1986
・『会津若松市史 19 会津の史的風景』 会津若松市史研究会, 2006
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